余白

森の写真

映画「影裏」を観た。

映画の感想を細かく書くにはあと3回くらい観る必要がありそうなので割愛するが、ざっくりした印象としては「いいな」だった。シナリオや、登場人物たちがというよりも、ああいう描き方の映画というのが、なんだか「いいな」と感じたのだ。

 

人が生きている感じ。映画となる2時間のために準備された、裏打ちされた、演出されつくした映像というよりも、そこに生きている人々を切り取ったような印象の映像は、最後まで観ても意図がわかりにくく、そもそもわかった!と言葉で説明できるような「答え」が用意されているのかどうかすらわからないような、そんなぼんやりとした読後感をもたらした。

 

映画『影裏』オフィシャルサイト
大ヒット上映中 綾野剛×松田龍平初共演 監督:大友啓史 原作:沼田真佑「影裏」(文春文庫刊)

 

これに似た感覚を、私は去年千葉市の美術館で味わった。SNS上でもかなり話題となった、「目 非常にはっきりとわからない展」だ。

 

作る側と観る側が完璧に分けられてるエンターテイメントにおいて、観る側を着地させる答えと、そこに着地させるための仕掛けが、作る側から十分に施されてないことへの不安感の大きさを、私はこの展示でひたひたと味わった。

 

きっと何か伝えたいことがあるはずなのに、その何かが分からないことへの焦り。自分の理解力が不足しているのかという羞恥。分かりやすくしてくれない制作者への不満。そんなちっぽけで傲慢な気持ちは、美術館で抽象画を見て立ち尽くした学生時代の自分とリンクした。

人間、わからないものは、こわいのだ。

 

 

そんな感覚を少なからず思い出させてくれた影裏。しかし私は、こわいというよりも「いいな」という感想が先に沸いた。こわいものには慣れたというのもある。そして何より、「わからないもの」が許容されていることに、今の私は少しばかり憧れを持っている。

 

影裏を「いいな」と思うと何が困るか。それはきっと、日常の景色や人間が全部ドラマチックに見えてきて、感情が忙しくなってしまうのだ。

狙いや意図を説明できなくてもいいのなら、わからないものがわからないままでも許されるのなら、人々の日々の営みは、注視すればそれだけで味わい深いシナリオとなる。

事件は現場で起きてるし、私は現場に生きてるし、私もまた登場人物の一人なのだなぁと思えてしまえば、普段の生活があまりにドラマチックなのだ。

 

準備された、裏打ちされた、演出されつくした作品とは正反対の、計算されてない、特定の答えが用意されてない、用意されている必要もない、余白のある世界。時間。関係。作品作りという意味だけでなく、人柄や生き方に余白がある人に、私はどうやら憧れているようだった。

 

 

私はどちらかというと、行動ひとつひとつに意味付けが必要な気がしてしまう性質である。それはおそらく、昔から心配性だった親からの「大丈夫?」に対して、「大丈夫だよ」と説明してあげるための根拠を、分かりやすい言葉で用意するクセを続けてきた結果だ。それが全く抜けないまま大人になってしまったのが、もうすぐ30にもなろうという私なのだ。

 

やりたいことを我慢してるのではない。やりたいことにそれっぽい意味を羽織らせないと、人前を歩くのに抵抗がある。そんな調子だ。うっかり羽織りを準備し忘れても、羽織がないことを人に気づかれる前に、その場で即席で織って「最初から着てましたよ?」という顔をしてしまう、そんな人間なのである。

 

分かりやすい例を挙げるなら、転職面接の「なんで前職辞めたの?」といった類の質問は、とても得意だ。違和感がなくて、リアリティがあって、目の前の大人から見てちょっと加点になりそうな回答。そんなものを羽織るのが得意だという特性は、社会を渡る上では強い武器であり、自分をひとりで省みた時には少し空しくなるものである。

 

そんなに上手いこと意味や理由を説明できなくても、やりたいことがあってもいいはずだよななんて、最近ちょっと思い始めているのだ。30を前にして。人生遅すぎることなんてないというが、まぁまぁ遅い部類だろう。遅くなった分、やりたいことを理由なくやっていいという許可を、これからの自分には強めに出していきたい。

例えばそう、前職を辞めた理由を聞かれたときに、「飽きたからです」と答えたら、「おもしれぇ女」と言って採用してくれるような人と、仕事をしてみたいところである。