遮音

スマホの写真

スマートフォンは便利だ。

 

ワンタップで様々な情報にアクセスできて、SNSで離れたところにいる人と繋がることができる。音楽も聴けるし映像作品も鑑賞できる。見たい・聞きたい・知りたいと思うことの大半は、この手の中の小さな筐体が、ほとんど叶えてくれるのではないかと思ってしまうほどだ。

 

しかし最近、少しそれがうるさくなってきた。

勝手に見聞きしておいてうるさいとは、スマートフォンからすればまったく迷惑な話ではあるのだが、彼が(彼女かもしれない)私に齎してくれる音や文字や映像といった情報は、人間が摂取し続けるには、あまりに多いのだ。

 

手軽に、気軽に手に入れられる情報。それはリアルタイム性や刺激を常に内包し、毎瞬ごとに味わいたい欲を抱かせる。しかし、それは本来食べなくてもいいおやつであることがほとんどだ。

 

かけている音楽も動画も、本当に集中してその芸術を味わいたいというよりも、ただなんとなく、満たされてない今を埋めるために、流し続けていることがないだろうか。何かを摂取し続けることで安心したい、落ち着きたいなんて無意識が、どこかにないだろうか。

 

意識的に、ずっと流していた音楽を止めてみた。部屋のエアコンが冷風を吐き出してくれる音は、一定のようでゆらゆらと動きがあることを知る。外で泣いている虫の声は、都会であってもしっかりと夏を感じさせてくれていると気づく。さっきから飲んでいる炭酸水に溶ける氷がぱちぱちと鳴って、温度だけではない涼しさを演出していることに舌を巻く。

 

こんなに身近な音たちを置いてきぼりにして、私は「大人になると季節を感じにくい」なんてうそぶいていたようだった。恥ずかしさよりも、もったいなさが勝っている。

 

人間は、何かストレスを感じると、さらに大きなストレスで上塗りすることで、元のストレスをやり過ごそうとするらしい。それは大きな音だったり、残虐で刺激的な物語であったり、あるいは実在する他人の、ノンフィクションの怒りや悲しみであったり。

 

そんなもので上塗りしないと日々を渡れないほど、きっと大人たちは疲弊しているのだ。そしてそれらが上塗りするのは、抱え込んだストレスだけでなく、子供のころには当たり前に身近にいてくれた夏の気配や、日常への関心まで道連れにしてしまう。それは、今の私には、どうにももったいないことに思えた。

 

無意識にかけている音楽。これを、今日からは少し減らしてみようと思う。私がいる場所から見えるもの、聞こえる音をちゃんと受け取ることで、今ここにいる私の時間が、もっと鮮やかに、時にドラマチックに彩られるかもしれない。

それはひどく、楽しみだ。