定点の多幸感

夕方の空の写真

いつもより早めに入浴を済ませ、エアコンで冷やす前に部屋の空気を入れ替えようと、窓を開けた。

 

涼しい。思いのほか涼しい。

人工的な冷風を甘受する前に、この自然風で湯冷ましをするのも贅沢かと、まだ薄明るい空に向かってベランダに出た。マジックアワーと呼ぶにはまだ彩度の低い空は、薄く雲がかかっているところもあれど、おおむね良い天気だ。

 

この後には仕事もなく、人に会わねばいけない予定もない。ぼんやりと過ごせる贅沢な夕方だ。

仕事で少しだけミスをして、人間が多くなってきた電車に乗ってささくれ立っていた気分が凪いでいき、窮屈そうにしていた心がゆるやかに広がっていく。

 

心が広くなったついでに、自分の肌の上で行なわれている晩餐は見ないふりをする。後から少し痒い思いをするかもしれないが、自分以外の命が今日食いつなぐことに貢献できるのは、なんとなく気分がいい。

偽善と呼ぶにも小さすぎる行為だが、何か困ったものを媒介しているのでなければ、誰にも迷惑はかかっていないので儲けものである。

 

一方で、クセで剥いてしまった唇の薄皮はベランダのプランターに落としておく。それが土に還るにあたり微生物の餌になり、その土に生える雑草たちの養分になれる日が来るかもしれないと思うと、やはりこれも気分がいい。

こちらは偽善による満足感というよりは、自分という存在がちゃんと自然の一部なのだと感じられる安心感のようなものだろう。

 

特別に刺激的なわけではなく、未来に向けた利益や成長がみられるわけでもない。けれどそれでも気分よくいられた時は、その瞬間が満たされている気がして嬉しくなる。定点で満たされていることは、明日への自信だけでは精製できない幸福感をくれる。

そういう時間を積み重ねていければ、もっと安定した精神を築けるだろうか。